風の行方

アクセスカウンタ

zoom RSS 牧山 圭男  「白洲次郎の流儀」

<<   作成日時 : 2008/10/20 23:48   >>

面白い ブログ気持玉 2 / トラックバック 3 / コメント 0

生まれてからの写真が多く載せられ、車の写真も何枚も。
政治にどう係わったかは殆んど概要だけ。馬場啓一 著の「白洲次郎の生き方」の方が詳しい白洲像が見える。
この本では 娘と娘婿が、どういう人物だったかを語る。

__<義父 白洲次郎と車>__
・ゴルフ場で「若い奴はセルフバックで回れ」「プレイ・ファウスト」「何時まで狙っているんだ。そんな所から入りやしないよ。早く打て。」「自分の庭に吸殻を捨てるバカがどこにいる。」「帽子をテーブルの上に置くな。」「クラブハウスの中ではサングラスを取れ。」「ゴルフがちょっとうまくなったからといって偉そうな顔をするな。」「キャディーに威張るな。」「ディポットは自分で埋めろ。」

・皇族の方がプレー後金を払おうとされ、当時の支配人が「プレー代を普通に戴いても良いものか?」と白洲の所に聞きに来て「当たり前だ!」と怒鳴られた。

・儒教で学んだ古い武家に生まれて米に留学した白洲の父 文平のヨーロッパに於けるネットワークに加えてこのアンクル ロビン(ケンブリッジ大クレア・カレッジの同級生 ストラフフォード伯爵)の知己を得て初めて金があるだけでは買えない、上質な社会への参加が可能になり国際的社会人としての教養、マナーや考え方、プリンシブル即ち’筋を通す事’’ノブレス・オブ・リッジ’という分相応の行動規範、カスタム(習慣)という先人の英知を尊重することなど多くを学び、その上でベントレーやブガッティーを持つ事を許されて青春を楽しむ事が出来たのではなかろうか。

・よく「今の政治家は交通巡査だ。目の前に来た事を捌いているだけだ。それだけで警視総監にだけはなりたがる。政治かも財界のお偉方も志がない。立場で手に入れただけの権力を自分の能力だと勘違いしている奴が多い。」

・白洲は何時もちょっとスノッブに(えせ紳士)にセクシーにドレスアップとドレスダウンをT.P.O.S(時、場所、機会、スタイル)に応じて楽しんでいた。

・稲垣足穂の「ヒコーキ野郎たち」に白洲が出ている。

・次郎の車遍歴---中学生の時、父親に買ってもらった米車_ペイジ、グレンブルックに始まり、ベントレー、ブガッティー、ランチャ、ハンドー・ホーク、ランド・ローバー、メルセデス・ベンツ、そしてセカンド・サイドカーとして時宜に応じて。例えばオイルショックの時などいち早く低燃費の三菱ミラージュに乗ったり、ジープ、トヨタ、ピックアップトラック、ソアラ、スバル・サンバーなど併用していた。最後は1968年製ポルシェ911Sのスポーツドライブを充分楽しんだ後、家族のアドバイスに従い80歳をもってイグニッションキーをテーブルの上に置いて終った。

・海外のモータリゼーションを早くから目の当たりにしていた白洲は戦後「自動車産業を国際的に育てようと考えるなら、右側通行にし、高速道路は3車線とし、出入り口やジャンクションなどは低速側に設置すべしと強くアドバイスしたが、自動車のことを知らない役人と技術者がバカな事を言って聞く耳を持たない。今に東京は渋滞でえらい事になるぞ。」といっていたが不幸にして当たってしまった。
 当時、実際に白洲は自分の海外ネットワークを生かしてBMWと国産メーカーの提携交渉やクライスラーとの提携話を当時の三菱重工トップが纏める橋渡しもしていたようだ。

・既に65歳を過ぎて第一線を退いていたが、大沢商会の会長、日本テレビ、シェル石油、大洋漁業、SGウォーバーグの顧問などをしており、仕事絡みの時はメルセデスベンツ450を自分で運転していく事が多かった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・「戦争前の日本の全部が自己陶酔だ。始めはちっちゃな嘘、それがバレそうになるとだんだん嘘を大きくしていく。仕舞いにはその嘘を本当だと自分で思ってしまう。」

・1919年神戸一中を17で卒業。1928年26で帰国の間、英へ。その後日本が米、英に宣戦を布告するまで2年に3回位の割合で外国へ。舟の長旅なので、日本には1年のうち4ヶ月位。この俯瞰的な立場で、満州事変、日中戦争、ノモンハン事件を眺めていた。

(pragmatic プラグマティック---現実的な、実利的な。realistic リアリスティック---写実的、現実的。)

・白洲次郎のプラグマティズムは積極的に浮きだるまの核になる「嘘」を見抜かずにはいられなかったろう。終戦連絡事務局でのGHQを向うに回した彼の活躍。或いは商工省から通産省への改組。電力事業の再編成といった経済復興のための荒治療は腕力を持った部外者(彼は外務省の役人でもなければ商工省の役人でもなかったし、代議士でもなかった)の立場であったが故に成し遂げられた仕事だと思う。

・軽井沢ゴルフクラブ 現場の人
白洲さんに「偉い人だからといって、コメツキバッタのように頭を何度もペコペコ下げる必要は無い。相手の目を見て話の内容を理解したら一礼すればいいのだ。」

・「大きな仕事を成すには、理解者を求めるよりも積極的に敵を作れ!敵のいない仕事など、大した仕事ではない。」と周囲の人に折に触れて告げていた。

・次郎、正子夫妻は、肩書きを持たずに生きて来た点で共通し、その点で互いに互いを認めていたのではなかろうか。二人は西洋の文化を取り入れた生活の中で育てられた。

日本人、及び日本文化を相対化して眺める視点は若いうちから自らのものと成り、日本人の社会に帰属する事に居心地の悪さを感じることには慣れていたのだと思う。二人は東洋と西洋を横断する人たちでもあった。次郎は沢山の人に「夫婦円満の秘訣は 一緒に居ない事。」と答えていた。

・正子のことを「婆さん」と呼んだが、「うちの婆さんは偉い。」と晩年よく人に洩らした。書いた文章を聞いてみる事もしなかったが、何度も現地に出かけ取材に手を抜かずに書く。一度行った事がある場所であっても今は変わっているかもしれない、書く以上は確かめたい。膝が傷む、持病の喘息が苦しい、それでも出かけていく。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

__<娘から見て>__
我が家は個人主義、父も母も私も、それぞれ好きにやる。3人で一緒に車で、という事は1度もなかった。京都に3人泊まった時、朝食もそれぞれ、行き先もそれぞれ、だが父が亡くなる前は急に2人で軽井沢に出かけ、帰ってくるなり京都へ。伊賀の陶芸家 福森 雅武さんの所で素焼きの湯飲みに字を書いたり、嵐山の「吉兆」でご飯を食べたりしたようです。
鶴川へ帰ってきて2日後、父は急逝。    (京都の常宿「佐々木」、信州下諏訪「みなとや旅館」)

・生前父は私に「武士の娘は人前で泣いたり、喚いたりするものではない。」と古風な事を申しておりましたが、涌井さんが運んでくださったベントレーを見た時に、口に表す事のできない感情に魘われ、不覚にも父が禁じていた涙がこぼれそうになりました。私は物を擬人化したり、逝ってしまった人が何を想うだろう、というようなことを避けて通る人間ですが、今回に限って、父も、ベントレーも、涌井さんのような方に所有していただいて、どんなに喜んでいるだろうという気持ちになりました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<年表>
・1902年(明治35年)2/17 父/文平、母/芳子の次男として兵庫県芦屋に誕生。
5歳年上の兄(尚蔵)と3歳年上の姉(枝子)がおり、後に2歳年下の妹(福子)と9歳年下の妹(三子)ができた。

{白洲家は元禄時代から歴代儒者役として三田藩主 九鬼氏に仕えた家柄。
祖父/退蔵は弱小の三田藩の家老として明治維新の動乱を乗り越え、三田県大参事、横浜正金銀行頭取、岐阜県大書記官などを歴任。福沢諭吉とも親交が深かった。
父/文平はハーバード大卒業後、ドイツのボンに学び、その頃正子の父、樺山愛輔と知り合った。}

・1919年(大正8年)---17歳 英ケンブリッジ大学 クレア・カレッジに留学
・1928年(昭和3年)---26歳 金融恐慌で十五銀行が休業宣言した煽りを受けて、白洲商店が倒産。大学院に進んでいたが帰国を余儀なくされる。暫くしてジャパン・アドヴァイザーという英字新聞社に勤め英文の記事を書いていた。
 この年 樺山正子(18歳)と知り合う。正子は(明治43年)1/7東京生まれ 父/愛輔は貴族院議員や枢密顧問官を務め、実業界でも活躍。
<戦前の日本の自由主義を担った代表的な華族の1人で、次郎と吉田茂との後の親密な関係の端緒を作った>
正子は14歳で渡米、ハートリッジ・スクールに留学。能を習い、日本の古典文学に親しんでいた。やはり十五銀行に愛輔が関係していた為、プリンストン大学に留学していた9歳上の兄/丑二(ちゅうじ)と共に帰国していた。
家の経済的事情でやむなく帰国した青年同士として次郎と親交を深めていた丑二が二人を結びつけた。

・1929(昭和4年)---27歳 11月 正子と結婚。父から結婚祝いに贈られた伊車 ランチア・ラムダで新婚旅行。「お嬢さんを頂きます。」と東京クラブにいた父に引導を渡しに行く。

・1943年(昭和18年)---41歳 鶴川へ。武蔵と相模の国境に在る事と、無愛想をもじって「武相荘」と命名
・1945年(昭和20年)---43歳 友人 河上徹太郎が東京空襲で家を失い、夫婦で鶴川へ(2年寄寓)
日本はポツダム宣言の無条件受諾を決定。占領下の12月 吉田茂外相の要請で 終戦連絡中央事務局参与に。(GHQとの連絡調整機関)

・1952年、1953年(昭和27,28年)---50,51歳 吉田首相の特使として欧米を巡る。

・1982年(昭和57年)---80歳 前にトヨタの豊田章一郎が工学博士と知らずに「少しは機会のことを勉強しろ。」と。次郎はソアラにも乗っており、’ハンドルが小さく太い’等指摘し、自分のポルシェ911で東富士試験場に乗り込み、「これを分解してソアラを作る時の参考にしたまえ!」と言って愛車を提供した。80歳で運転はやめた。
・1984年(昭和59年)---82歳 7世ストラフォード伯/ロビン・ビング氏 死去。ロビンは来日した折、武相荘でドテラ姿となり志野のぐい呑みでブランディを飲んだ。次郎はロビンから贈られたスコッチを毎夕楽しんでいた。
・1985年(昭和60年)---83歳 11月16日より正子と伊賀、京都を旅行。26日帰省後身体に変調。


///まだまだ詳しく知りたい、魅力的な人間である。リアルタイムで姿、発言を体感したかった。////


copylight sato/side-car All rights reserved.    
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ 人気ブログランキングへ

白洲次郎の流儀 (とんぼの本)
新潮社
白洲 次郎ほか

ユーザレビュー:
カッコよさを学ぶなら ...
本当に白洲氏のそばに ...
生涯学ぶこと 今や  ...
amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by ウェブリブログ


テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
面白い
ナイス

トラックバック(3件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
馬場 啓一 「白洲次郎の生き方」
前の「白洲次郎の流儀」とだぶるような文が出てくるが、裏返せば、誰から見てもその様に見て取れる人物だったと言う事か。 今の政治を眺めていたら何と言うだろう。中で閣僚達と働いていたらどんなだろう。TVの政治ニュースに釘付けになるだろうな。 ...続きを見る
風の行方
2008/12/11 22:54
馬場啓一  「白洲正子の生き方」 vol.1
白洲正子を語るのに「能」「骨董」は外せない。彼女が長年付き合って得たものから、’自分の生き方に取り入れたい’と感じた文を、彼女の言葉そのまま書き出してみた。 ...続きを見る
風の行方
2008/12/11 22:57
NHK「白洲次郎」第二話を見て
’自分の意志にゆるぎなく’ 赤紙を握りつぶしてもらった。 ’その者に与えられし役目がある’戦争に行きたくないからじゃない。 ...続きを見る
風の行方
2009/03/16 22:57

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
牧山 圭男  「白洲次郎の流儀」 風の行方/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる