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zoom RSS 馬場 啓一 「白洲次郎の生き方」

<<   作成日時 : 2008/10/22 23:12   >>

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前の「白洲次郎の流儀」とだぶるような文が出てくるが、裏返せば、誰から見てもその様に見て取れる人物だったと言う事か。
今の政治を眺めていたら何と言うだろう。中で閣僚達と働いていたらどんなだろう。TVの政治ニュースに釘付けになるだろうな。


__ビンデージ・カー 1920年時代に製造されたものを特に指して言う。
日本で言う車マニア=カーキチは英語で’オイリー・ボーイ’と呼ぶ。今日とは違い、当時の車はドライバー自身に整備の心得がなければ乗りこなせなかった。

後年白洲はトヨタソアラの開発に当たり技術者にアドバイスを与える。与えられた方は彼の精緻なチェックに驚いた。

___年表__
・1902年2/17(明治35年)兵庫県芦屋生 士族だが平民
白洲家 徳川時代 儒学者として三田(さんだ)藩主 九鬼家に代々伝える。
祖父/退蔵 藩政の改革に奔走し、その建て直しに成功。明治維新では藩の重鎮として腕を揮い、廃藩置県は三田県大参事。後に神戸女学院設立に加わり、横浜正金銀行(後の東京銀行へと発展)の頭取。明治24年 62歳で没。従五位に叙せられる。

---父/文平 ボストン ハーバード大学。のちドイツに。当時プロシアのボンへ。戻って三井銀行に勤め、後に鐘紡へ。後独立して貿易会社 白洲商店を始め、綿の貿易で大成功。しかし倒産。建物道楽で、気に入った場所に気に入った造りの家を作らせる。(誰も住まない)破産してから阿蘇山録に小屋を建て、愛犬と共に亡くなるまで住んだ。

---白洲正子(樺山)__樺山家 伯爵=華族、祖父/資紀(すけのり)海軍大将。父/愛輔と次郎の父とは旧知の間柄。

17歳 英留学10年過ごす。ケンブリッジ
この影響で日本特有の、理屈だけで押し通せない曖昧さを拒絶、モットーとし突き通した。

身長180cm(欧米は我々は考える以上に見た目を重んじる。---漱石は英国へ、鴎外はプロシアへ。大体彼らは150cmこの貧弱な体躯とおぼつかない語学力で殆んどの留学生は劣等感を持ち、神経衰弱に近くなった。国家から派遣されたエリートという自負と現実の生活とのギャップがあった。)

神戸女学院の外人教師が家に寄宿。英語を学んでいた。この英語力、父親からの潤沢な仕送り。英国の特許階級と互角にいた。ブガッティ、ベントレーなど高級車を乗り回し、ゴルフ、ラグビー。彼らからは貴族、特権階級の生活、思想、態度を学ぶ。戦後 母校のラグビーチームが来日した折面倒を見る。オックス。ブリッジに学ぶと言う事はそ
う云うこと。

----正子の兄が次郎と友人。正子は米留学より帰国。米で散々西欧人種のスマートな男達を見ているので、並みの日本の男では眼鏡に適う者は居なかったのだろう。一目ぼれ。正子19歳 次郎27歳の時結婚。次郎の父は結婚祝いとして伊製の車ランチア・ラムダ(当時最高性能のスポーツ・カー 今なら3,000万円ほどになる)破産にもかかわらずこれだけ余力が残っていた。正子は彼の物怖じしないところが魅力だった。

・生涯の友となる7世ストラトフォード伯爵
オックス・ブリッジは官僚養成大学ではない。当時は何より大英帝国の国威を発揚し、より円滑な植民地運営を図ることが先ず是とされた。エリートはエリートに応じた責務を課される、とする義務感、辺境の地で働く事はオックス・ブリッジの卒業生にとって意味あること。言わば民尊かん卑気質。帰国後「ジャパン・アドヴァタイザー」という
新聞社に。日本を外国に知らせる為の新聞を発行。一族を養う為にセルフ・フレーザー商会という英国系の貿易会社に転じる。伊丹の実家には10人ほどおり、面倒を見る必要があった。給料は並みの会社員の10倍。次に日本水産に移る。

----当時伊丹の家には、コロー、マネ、マティス、ピカソ、ブーダンなど20世紀を代表する画家の絵が掛かっていた。
白洲夫妻の金遣いの荒さには追いつかず、集めた絵を1つずつ売って凌いだ。ヨーロッパ旅行(次郎の仕事で)

・新婚時代(昭和始め)
---吉田茂  駐英大使館の一等書記官。ロンドンへ。白洲も英国に居た。S11〜3年間駐英大使。岳の父/牧野伸顕 薩摩閥の大物で、大久保利通の次男。父/竹内網 土佐の自由民権運動の闘士。

・S20年 幣原内閣で外務大臣となった吉田は、白洲を終戦連絡事務局参与に任命。米を始め占領軍との折衝(43歳)。タフ・ネゴシエーター。最大の仕事は日本国憲法の草庵対策とその性格についての意見具申。

・S23年 初代貿易庁長官に---貿易庁では根強い島国根性と部下や官僚たちの腐敗を見る。
その後 
・経済安定本部次長
・賠償協議会副会長    八面六腑の活躍

吉田はワンマン宰相として長く新聞に叩かれ側近の白洲にも及ぶ。
・S26年 武勇伝を残し白洲辞任

・S26年(49歳) 東北電力の会長(電力事業を再編成し、民間化という大事業を行なった後)
(需要を見越し只見川ダムの建設)

講和会議での白洲が果たした最大の役割は吉田の調印後の演説を日本語に変えさせた事(日本が正式の国際会議に仲間入りする事を宣言する大事な演説)
__当初、英語で話されるはずだったが日本語に変えることで日本の面目を保つ。

・日本テレビ社外重役
・投資銀行 ウォーバーグ紹介の顧問

・S34年(57歳)東北電力会長を辞任
----S30年代 次郎と相反して正子は和服と工芸の店を出し、随筆かとしてもこの頃活動を始める。
正子にとって次郎は父親と同質のものを持つ最高の伴侶。志を共にする同士。

次郎は夫婦円満の秘訣を「一緒に居ない事だ。」と漏らす。互いに好きな道を進み尊重しあう。

・軽井沢ゴルフ倶楽部に後半心血を注ぐ。会長職の頃会員の無作法を厳しく戒める怖い老人。
_ルールを重んじ迅速なプレーを旨とすべし、と説く。
_メンバーで無い人物はたとえ一国の宰相や大使であっても敢然とはねつけた。
_従業員(キャディーなど)定年で退職時、可能な限り送別会に出席。

毅然とした態度は「なあなあ」や「もたれあい」の蔓延る日本では時に誤解を生む。しかし非は相手にある。白洲は正しい事を正しいと述べそれを頑として押し通しただけ。

・80歳近くになるまでポルシェ911を運転(ハンドル重くギア操作に熟練を要する)
足代わりに使ったのは優秀な機械に対する彼なりの畏敬の念。好きでもないのに見栄、体裁で黒塗り高級車を買う連中を蔑む。

・祇園で舞妓をはべらし大いに酒を飲む。それでも滅多に酔う事はなかった。たまに酔うと日本語より英語が飛び出す。分別失わずいい酒だったと彼女達は言う。

---大英帝国の黄金期19世紀
7つの海を支配した16世紀エリザベス1世 45年治世も華やか。
19世紀 女王ビクトリア 64年治世はそれ以上
印、豪、アフリカの大部分を手中に(世界の歴史において比類の無い巨大さ)
それから100年間で 大英帝国の人口は4倍、総生産は14倍。

20世紀 世界大戦 この時に王族でもそれに連なる身分でない、一商人の息子がケンブリッジに学ぶ事が出来たのは、世界が新しい時代へと突入したことを示す。


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2008/12/11 22:53
馬場啓一  「白洲正子の生き方」 vol.1
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風の行方
2008/12/11 23:00
NHK「白洲次郎」第二話を見て
’自分の意志にゆるぎなく’ 赤紙を握りつぶしてもらった。 ’その者に与えられし役目がある’戦争に行きたくないからじゃない。 ...続きを見る
風の行方
2009/03/16 22:55

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